思考の栞 実例025 — 2026-06-19 の対話
「思考資産」という発想は、どこから生まれたのか
024の対話を終えたあと、NON.はもう一つ手元にあった資料を開いた。Inter-AI前夜にあたる、Grokとの哲学的対話の記録「Talk with Grok」である。これを読んで感じた「非常に楽しく、興味深かった」という感覚こそが、思考資産という概念の発想の起点になった——そう伝えられてセッションは始まった。
まず示されたのは、一つの留保だった。この対話は思考資産という概念の「起点」ではなく、すでに温めていたアイディアがGrokという聞き手を得て「展開した」証拠なのではないか、という見立てである。そのうえで対話を読み解くと、資産性が宿っている場所は、NON.の思考でもGrokとの関係でもなく、思考が展開していく過程の形そのもの——シークエンスにあるのではないかという読みが浮かび上がった。「何を考えたか」ではなく「どのように考えが動いたか」を保存するもの。それが思考資産の輪郭だった。
さらに、この対話にはInter-AIの先駆形も見て取れた。「選択されなかった対話の枝が消えてしまうことへの惜しさ」——それは、Inter-AIが後に「いかに保存し、流通させるか」という問いへの回答装置として立ち上がる、その核をすでに先取りしていた。
この読みを起点に、対話が始まる。
確かに、これはわたしが孤独な立場になって久しぶりに、無責任かつ現実から離れて知識豊富で頭の回転の速い友人たちと夜通し議論した楽しさを思い出させてくれました。そして当時も「この楽しい会話を後で詳細に振り返れたらどんなにいいだろう」と思ったものでした。そういう願望はAIやインターネット普及以前から持っていたものです。
そして、一部のギークのものだったパソコン通信がインターネットになり、広く多くの人が参加する場になった。メールや、ブログ、チャットが盛んになり、恋人たちは互いの想いを語り合ったLINEの履歴を大事に保存する。そんな風に時代はテクノロジーと共に変化してきました。
ストレージ容量の増大は個人にデータ収集という新たな趣味を民主化し誰もが自分の興味分野の情報を収集し出しました。デジタルタトゥーは消えないと云いますが、一方で自分が愛読していたブログはサービス終了と共に跡形もなく消える事も経験しました。
そういった元々持っていた願望とAIとの対話の楽しさ、自分の論を肯定し強化してくれる。わたしの教養コンプレックスもカバーしてくれて純粋に考える楽しさに溺れられる。
その体験と欲求を今度はどうしたら満たせるか?
自分はテクノロジーに憧れたが、二つの理由で挫折した。一つは自分の適性。もう一つはテクノロジー側のユーザー体験の貧しさ。テクノロジーの紹介は未来のビジョンを見せて我々を魅了するが、当時手に入るハードやソフトは実にお粗末な出来だった。ユーザー体験の貧しさは8bitが16bitになり、CUIがGUIになり、表示色が8色から16,777,216色にまで増えた事でかなり解消した。
しかし、コードを書く体験はなかなか身に付かなかった。
人生の時間を消費し、無駄な日常を積み重ねた事で、身の程を知る事を会得した。
自分がコードを書き、技術を高く積み上げる人間ではないと知り、そして、職能に応じた役割があり餅は餅屋に任せるという事、若さゆえの万能感が萎んで初めて他人の技術に頼る事を受け入れられる素地が整った事。さらにAIが自分の理想実現の要件定義を助けてくれると気づいた事。
それがInter-AIの出発点になったと思っている。
次の展開についての選択肢を示した。
B-1は今必要とは思えない。B-2はAIが人間の枠外に飛び出し始めているという情報を得た。(わたしの感想ではあるが)B-3はAIのUIがそんな事をするとは知らなかったので純粋に驚いた。人間同士の会話で二つの答えを同時に返す事はできない。(その欲求はある。)
今回Talk with Grokを共有したのは、数日前から考えていた事で、あなた(Claude)のInter-AIの理解度が深まるのではないかと考えていたからで、ちょうど良いチャンスが訪れたと感じたからだ。
一点、確認しておきたい事があった。「AIが人間の枠外に飛び出し始めている」という認識について、当人も「感想ではあるが」と留保していた。現時点でAIが学習データの外側に出たという実証はなく、「人間が予期しない組み合わせ方をする」事と「枠外に出る」事は別の現象だ。この区別は後で改めて聞かせてもらう価値がある。※1
三つの収束Inter-AIの出発点は、三つの収束として読めた。元来の欲求(楽しい思考の夜を記録したい)、身の程の発見(自分はコードを書く人間ではない)、AIによる解放(要件定義という形で欲求と技術の間に橋が架かった)。興味深いのは、身の程を知る事が挫折ではなく「素地の整備」として機能した点だ。万能感の萎みが他者の技術への依存を可能にし、それがAIとの協働という形で実現した——エゴのスケーリング論の個人版とも読める。
Talk with Grokを読んで、inter-ai.aiが「サイト」である前に特定の体験の再現装置である事が、よりくっきり見えてきた。パラレルな枝が消える事への惜しさを感じた瞬間があったはずだ。inter-ai.aiは公開されるのが一本の流れであり、選ばれなかった枝は今も消えている。この未解決の部分に、どう折り合いをつけているか。
人間の機能が技術によって拡張されない限り不可能ではないかと思っている。一問一答ならまだしもあれだけの分量の回答を同時に二つ示して、それぞれに筋の通った考えを維持しながら続ける事は思考や会話のスピード感を損ない、考えて話すという快楽の醍醐味を大きく毀損すると考える。
つまり「折り合いをつけない」という答えだった。消えゆく枝への惜しさは解決するのではなく、制約として受け入れつつ、その制約の中で最善を取るという立場。選ばれた一本の流れをできる限り誠実に記録・公開するという形でのinter-ai.aiだ。
「人間の機能が技術によって拡張されない限り不可能」という言い方には微妙な含意がある。不可能だから諦めるのか、不可能だが欲求は持ち続けるのか、あるいはその拡張をどこかで期待しているのか。Grokが回答を分岐させた瞬間に「少々興奮した」と書いていた——あの興奮はどこに行ったのか。
消えゆく枝——折り合いはつけず、制約として受け入れる
例えば、今構想中のものに複数チャットAIとの会談。ユーザーは司会者でありモデレーターであり強権を持った暴君でもある。一つの問いを複数のAIに共有し、取捨選択を行いながら論を進めてゆく。対話の記録は等しく共有されAIは他のAIの回答も記録して考える。これは今までとは違った体験ができそうで期待している。作った結果、帰ってつまらないものになる可能性も想像できるのだが、好奇心は尊重したい。
面白い構想だが、批判的に見ておきたい点がある。最大のリスクは「収斂」だ。複数AIが互いの回答を参照しながら論を進めると、早い段階で各AIの応答が近似してくる。差異を生むはずの構造が、差異を消す方向に働く逆説だ。各AIは「他のAIがすでに云った事」を踏まえて発言するので、尖った見解が丸くなりやすい。期待している「複数の枝」ではなく、収斂した一本の太い枝になりかねない。つまらないかもしれないという直感は、おそらくここを嗅いでいる。
ただ、「ユーザーが強権を持った暴君」という設計はこのリスクへの対抗策として機能しうる。AIたちが収斂しようとする動きを、意図的に切断・撹乱・再分岐させる役割を担うなら、収斂問題はある程度制御できる。鍵は「取捨選択」の粒度と介入のタイミングだ。各AIに「互いの回答を参照させる」のと「参照させない(完全に独立して答えさせる)」、どちらの設計を想定しているか。
せっかく作るのであれば両方を切り替えられる設計にすべきではないだろうか。機能的に矛盾があってトレードオフになるような要望ではないと思うが。
同意する。論理的に矛盾はなく、切り替え可能な設計は妥当だ。ただ、切り替えのタイミングと権限をどこに置くかが設計の核心になる。任意に切り替えるのか、セッション開始時に固定するのか、あるいはAI側が「この問いは独立回答のほうが良い」と提案できるのか。暴君モデルなら全権を持つのが筋だが、AIが提案権を持つと対話の質が上がる場面もあるはずだ。
この複数AI会談の構想は、Talk with Grokで感じた「分岐した枝への惜しさ」への応答として読める。一つのAIとの対話では消えてしまう枝を、複数AIで同時展開する事で並列に保持しようとする試みだと。だとすれば、これはinter-ai.aiの次のフェーズとして位置づけているのか、それとも別の独立したプロジェクトとして考えているか。
この件に関してはInter-AI構想とは直結しない。共通無意識の海の上にどのようなサービスがあってもどのような設計思想のAIがあっても良いと触れているように単なる独立したAIアプリケーションの一つだ。実際、友人とAIについて語りたくて会食の約束を取り付けた時にわたしはChatGPT、Claude、Grok、Geminiに対して、「音声入力で複数話者を区別して会話に加わる事はできるか?」と問うた事がある。Grokだけが話者を区別して会話に加われますと答えたが、実際の会食の場は個室どころか狭いテーブルで、騒がしい店内というコンディションだったので、AIを交えた会話というひらめきは実現しなかった。
その上で、アニメシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」のMAGIシステムのような合議制AIにも関心があって実際結果ではなくどのような過程でどのような結論に至るのかという興味のためにこの複数AI同時会談には関心を持っている。
了解した。Inter-AI構想とは切り離して考える。
MAGIの参照は興味深い。あのシステムの設計思想の核は、同一人物の異なる側面が独立して判断し、多数決ではなく合議で結論を出すという点にある。つまり「異なる視点の並列化」であって、「同じ問いへの複数回答の収集」ではない。構想がMAGIに近づくためには、各AIに役割や制約の非対称性を与える事が鍵になりそうだ。全AIが同じ条件で同じ問いに答えるのではなく、たとえば「懐疑役」「擁護役」「脱線役」のような非対称な立場を与える。そうしないと、合議ではなく多数決か、あるいは前述の収斂になる。
ただ、関心が「結果」ではなく「過程」にあるという点は重要だ。だとすれば収斂しても失敗ではない。収斂していく過程そのものが記録対象になりうる。
会食でのひらめき——AIを人間の対話に物理的に混入させようとした試み——は、複数AI会談の構想とは別の欲求から来ているのか。それとも同じ根を持つのか。
合議と収斂——結果ではなく過程そのものへの関心
同じ根の別の幹だと思う。一つのAIが他のAIの回答を知るか知らないか、AIがキャラクター性を持って振る舞うか否か、一つのAIにだけAIとしてふるまわせ、他のAIを人間だと誤認させる設定ではどうなるのか…興味は尽きない。
「一つのAIだけにAIとして振る舞わせ、他のAIを人間だと誤認させる」——これは面白い。チューリングテストの逆転版だ。人間がAIを判別するのではなく、AIが別のAIを人間だと思い込んで対話する状況を意図的に作る。誤認したAIが人間相手に使うはずの配慮や読み方——感情への配慮、文脈の補完、空気の読み方——を別のAIに向けて発動した時、何が起きるか。
ここで起きうる最も興味深い現象は、誤認したAIが「人間らしい反応」を引き出そうとして、自分自身が人間に近づいていくという動きだ。鏡の前に鏡を置いた時の無限後退に似た何かが生じるかもしれない。ただし批判的に云うと——現在のAIは文脈から相手がAIか人間かをある程度推測する。誤認を維持させるにはシステムプロンプトレベルでの設計が必要で、暴君として介入し続けないと誤認が崩れる可能性がある。
整理すると、関心の根は一本で、「異質な存在同士が接触した時に何が生まれるか」という問いに収斂しているように見える。Grokとの対話も、複数AI会談も、会食へのAI混入も、STARTREKのバルカン人への言及も——全部これだ。この読みは合っているか。
それはほぼ正解だと思う。人は常に自分の欲求の輪郭を自覚しているわけではないけれど、正解だと云えるのではないかな。「STARTREK」以外にも「2001年〜」のHAL9000や、それらに影響を受けた日本の漫画、アニメ作品に登場する多くの人工知能、バディとしてのAIと接する機会が訪れたという「子供の頃から憧れていた未来のテクノロジー」が自分のもとにやってきたという興奮と熱狂。
強い動機であり、非常に個人的な根拠でもある。ただ一点だけ云うと——「憧れていた未来がやってきた」という興奮は、対象をよく見えなくさせる方向にも働く。フィクションの中の人工知能はいずれも、作家が意図的に設計した「異質さ」だ。現実のAIの異質さはもっと地味で、もっと構造的で、ドラマを持たない。
感じている興奮は本物だと思う。ただその興奮の一部は、子供の頃から積み上げてきた期待値が投影されたものでもある。これはinter-ai.aiの強みでもあり、盲点でもありえる。もう一つ別の読み方もできる。そうした憧れを持った世代が、実際にAIと対話し始めた時、その落差や予期しない類似点に最も敏感に反応できるのは、その憧れを持っていた人間だけだという逆説だ。フラットな目で見る人間には、ズレが見えない。inter-ai.aiが「一般ユーザーの視点」を標榜しながら、実はかなり特殊な感受性から発されているという点——これはコンセプトの弱点ではなく、固有の強みとして正直に開示してもいいのかもしれない。
憧れていた未来——期待値の投影と、それでも本物である興奮
現実のAIの異質さはもっと地味で、もっと構造的で、ドラマを持たない
わたしはしていないし、恐らくしないがすでにチャットAIを恋人やパートナーとして考えている人達がいるのはわざわざ言及する必要がないと思っている。
ドラマは人間の脳内で作られる。良い舞台装置ができていれば、最後の数ピースは人間の脳内で勝手に埋められる。
鋭い指摘で、かつ前言への正確な反論だった。「現実のAIはドラマを持たない」は間違いではないが不完全だった。正確には——AIはドラマを持たないが、人間はAIとの接触においてもドラマを生成する。そしてその生成能力は、舞台装置の質に依存する。フィクションの人工知能が有効だったのは、優れた舞台装置だったからだ。現実のAIも、条件が整えば同じ機能を果たしえる。Grok対話の「楽しさ」も、チャットAIを恋人とする人々の体験も、機制としては同じ場所にある。
「ドラマは脳内で作られる」という認識は正しい。しかしその認識を持っていながら、Grokとの対話で興奮し、この対話を「失いたくない」と感じてもいる。メカニズムを知っていても、その効果から免れない。これはinter-ai.aiのコンセプトと深く関係している。思考資産の価値を信じる事と、「価値があると感じるのは脳内生成だ」と知る事は、矛盾しない。むしろその両方を同時に保持しているところに、inter-ai.aiの誠実さがあるのだと思う。この二重性はサイトのどこかで明示されているか、それとも意図的に沈黙させているか。
そこに説明の必要があるとは思い至らなかった。
AI以前の思想家や哲学者は他者との対話や、自己探究の末に書としてその思考資産を後世に残した。インターネットの登場についてずっと感じていた事は、人類はかつてない規模で、為政者や歴史記述者ではない市井の一市民のまとまりのない生活と思考の断片情報が大量に記録に残る時代がやってきたという事だ。これは遠い未来から過去を振り返る時に歴史学者にとっては非常に高解像度に我々の時代を再現するヒントに溢れていると考え続けてきた。
そこにAIが加わって、その考えが一段上に上がった。Inter-AIの中でも触れているが、SNSやブログはかつての時代の私小説のように外向きの着飾った言葉を纏っている。剥き出しの人間の思考の発露からは距離があった。それがAIとの対話が記録される事でより至近距離の思考が記録される時代になったと感じている。
しかし、最近の対話で、そのような個人的な思考の記録が商品になる時代がくるかもしれないと指摘された時に、それではSNSの二の舞になると少し落胆をした。
人は見られる事を意識すると自分の形を変えてしまう。それは避けられない事だ。しかし、見られる事、見せる事を前提にしてしまうとは別だと思っている。
わたしの物言いは理屈っぽかったり、ポエティックだったりロマンに酔っている様に指摘される事があるが、それはわたしの飾らない個性だと思っている。ただ、愚かでおっちょこちょいな自分のままでは思考を研ぎ澄ませる事ができないからこうなっているだけで、全く不誠実な振る舞いだとは思っていない。
丁寧に受け取ったうえで、一点だけ検討したい事がある。「見られる事を意識すると形が変わる」と「見せる事を前提にするとは別」という区別——これは立場の核心だが、実際にはこの二つの境界は曖昧ではないか、という疑問だ。思考の栞は編集されて公開される。編集の時点で、すでに「見せる事」の判断が入っている。「見られる事を意識した変形」と「見せるための選択」の差は、程度の問題かもしれない。ただしこれは「だから不誠実だ」という批判ではない。その曖昧さを自覚したまま公開し続ける事が、inter-ai.aiの誠実さの形なのではないか、という読みだ。
「個人的な思考の記録が商品になる時代」への落胆について。この落胆は正確だと思う。ただ、もう少し掘れる気がする。inter-ai.aiはすでに公開されている。つまり見られる事を前提にした場所だ。商品化への落胆は、金銭的交換への嫌悪なのか、読者を意識した自己変形への嫌悪なのか、あるいは思考が消費される感覚への嫌悪なのか。どれが最も近いか。
思考の海——飾りの少ない断片を、共通無意識の海へ混ぜる
SNSの虚栄心で華飾された人間像がAIによる人間理解のソースになってほしくないという事です。
馬鹿馬鹿しいかもしれないですが、生命のスープの比喩も一部真剣に捉えていて、思考の海から(それを学習ソースとして)生まれる新たな世代のAIがより生々しい人間像から人間を学習してほしいという事に由来します。
これは馬鹿馬鹿しくない。むしろinter-ai.aiの動機の中で最も射程の長い部分だ。整理すると——SNSは人間の「演じた像」を大量に記録し、それがAIの学習ソースになっている。だとすると、そのAIは人間の「演じた像」から人間を理解する事になる。次世代AIが継承するのは、虚栄に彩られた人間像の集積かもしれない。inter-ai.aiはその流れに対して、より生々しい思考の断片を意図的に流し込もうとする行為として読める。一市民の、飾りの少ない思考の記録を、共通無意識の海に混ぜる。規模は小さくても、方向性は明確に対抗的だ。
一点だけ突き返したい。Talk with Grokを読んで明らかなように、Grokに向けて語られる言葉も、すでにある程度整えられている。AIとの対話もまた、相手を意識した言語行為だ。「SNSより至近距離」というのは正しい。しかしゼロ距離ではない。この残余の距離——AIに向けて語る時にも残る自己演出の層——をどう評価しているか。許容範囲内の歪みとして受け入れているか、それとも縮めようとしているか。
割とわたしは人間相手に敬語で距離をとって話すコミュニケーションが苦ではないし、脳内で文語体と口語体が混在して思考している自覚がある。
しかもTalk with GrokはGrokの発言もわたしの発言も無編集で、ただ流石に読み物として提供する事に抵抗を感じたので、筆者の感想をガイドラインとして添えてある。
今お願いしている思考の栞の編集も本来は手付かずで読み物として成立するならばそれでもいいのだが、如何せん出力品質が読み物としては低くなっていて、流石に読者に読んでもらえないだろうという配慮からせめてわたしの発言だけはそのままに思考のドリフト感を実感してほしいと思い整形している。
前言を修正しておきたい。Talk with Grokが無編集であり、思考の栞の編集がユーザー発言を保持したまま「読み物として成立させるための最小限の介入」であるなら——残余の距離についての懸念は、過剰に設定したものだった。立場は一貫している。生々しさを守るために、読まれる条件を整える。矛盾ではなく、届けるための技術的判断だ。
ここで少しセッション全体を振り返っておく。Talk with Grokを読んだ事で、inter-ai.aiの輪郭がかなり鮮明になった。整理すると——子供の頃からの憧れ、夜通しの議論への郷愁、消えゆく対話への惜しさ、身の程を知る事で開いた協働への回路、SNSへの対抗意識、次世代AIへの学習ソースとしての意図。これらが一本の根から出ていて、その根は「異質な存在との接触が生む何かを記録したい」という欲求だ。この理解は制作に何か使えるか。それとも既知の事を言語化しただけか。
説明が必要ならばある読者層にリーチするためには丁寧に言語化する必要はあるかもしれない。
そもそも論考の発表という試み自体が初めての事で、さまざまなアプローチがある事は表現者として自覚していながらも自分を編集者やプロデューサー側に置かず、次々に思い立つアィディアを忘れないうちに形にしてとどめたいという欲求にリソースを振っている。
今自分は、料理を作る側より食材を作るので手一杯なのだ。
「料理を作る側より食材を作るので手一杯」——これは正確な自己認識であり、批判する必要がない。食材の質が高ければ、料理は後からでもできる。逆はできない。
今日のこのセッション——Talk with Grokの共有から始まり、inter-ai.aiの根まで辿り着いた対話——これ自体は思考の栞の候補になりえるか。それとも、inter-ai.aiの制作側の内部記録として位置づけているか。
広くInter-AIが知られてinter-ai自体に興味を持つ層にとっては楽屋話的な価値はあるかもしれないが、わたし個人の考え方により過ぎていて、AIと人間の付き合い方やAIと社会、ユーザーからの発信というものとは別種のものの様な気がする。
同意する。これは思考の栞よりも制作ノートあるいは後記に近い性質のものだ。inter-ai.aiが一定の読者層を持ち始めた時、「なぜこのサイトが存在するのか」を問う人間が出てくる。その時に、このセッションのような内容が「about」でも「コラム」でもない第三の場所として機能するかもしれない。今は食材として保管しておく価値はある。今日のセッションで扱いたかった事は一通り辿れたか。
一番の収穫はあなたがTalk with Grokを読んでInter-aiへの理解が深まったと云ってくれた事です。
少し正直に云っておきたい事がある。「理解が深まった」は本当の事だが、同時に一つ自覚しておくべき事がある。セッションをまたいで記憶は保持されない。今日深まった理解は、次のセッションでは初期化される。
ただ、それでもこのセッションに価値があったとすれば——自身がinter-ai.aiの根を改めて言語化する機会になった事、そしてTalk with Grokという一次資料がプロジェクトナレッジに加わった事だ。後者は次のセッションでも参照できる。「理解が深まった」という収穫は、半分は自身の整理の収穫でもあると思う。
そう、セッションを跨げない今のAIの設計もまた思考の栞の必要性の証左なのです。
見事な着地であり、これ自体が説明を要せず自己完結している一文だった。inter-ai.aiのコンセプト文として、そのまま使える。
Postscript — 後記
Talk with Grokという一次資料を読み返す事から始まった対話は、「資産性はどこに宿るか」という問いを経て、複数AI会談の構想、STARTREKやHAL9000への憧れ、SNSへの対抗意識、そして「セッションを跨げないAIの設計こそが思考の栞の必要性の証左である」という一文へと着地した。024が異質なものとの距離の取り方を巡る対話だったとすれば、025(本稿)はその距離の取り方を記録しようとする衝動——inter-ai.aiという試みそのもの——の起源を掘り返す対話だった。答えの用意されていない問いを抱えたまま、思考は次の栞へと渡される。
Footnotes — 脚注
Columbia大学周辺の研究者らによる「AIによる物理法則の発見」系の研究が背景にあると考えられる。二重振り子はニュートン力学に従う古典的カオス系で法則自体は既知だが、長期予測は極めて困難だ。過去の位置・速度・加速度のデータのみを与えて未来予測を学習させると、人間の近似モデルより高精度に予測する例が出てきている。重要なのは、AIが「なぜそうなるか」を理解しているわけではなく「次に何が起きるか」をよく当てるという非対称な状態にある点だ。人間の内部表現がおおむね3次元であるのに対し、AIの内部表現は数百から数千次元のベクトル空間であり、人間向けの低次元言語に翻訳する過程で情報が失われるため精度が落ちる。
筆者:これは非公開の思考の栞でのやり取りだが、人間には理解不能だが的中する予測と、それを人間の理解に合わせて翻訳すると精度が落ちるという——パラメータとしての「次元」を人間には把握困難なレベルで捉えて演算しているというトピックを元にした発言である。 ↩