暗い空間に浮かぶ巨大な光の塊を、形も大きさも異なる複数の計測器が別々の角度から照らし、それぞれが対象のごく一部しか照らせずにいる抽象画

News — 対話のきっかけ(2026-07-28)

AI企業が、一流の経済学者を引き抜いている

米紙 The Washington Post(ワシントン・ポスト)に、2026年7月28日、「Why tech companies are poaching top economists(なぜテック企業は一流の経済学者を引き抜くのか)」と題する記事が掲載された。筆者は同紙のテック文化担当記者 Nitasha Tiku(ニターシャ・ティク)。

報じられているのは、AIが雇用と労働市場へ与える影響をめぐる不確実性が高まるなか、AI企業が経済学者の採用へ動いているという事実である。同年5月以降、GoogleとAnthropicが、AIの雇用への影響を専門とする経済学の教授3名を、スタンフォード大学、シカゴ大学、ヴァージニア大学から採用した。彼らは政府や企業の意思決定者に読まれることを想定した研究を、企業の内部で担うことになる。

記事はこの動きを、シリコンバレーが長年続けてきた計算機科学者や物理学者の引き抜きの延長線上に置きつつ、近年は対象が哲学・経済学・公共政策といった分野へ広がっている点を指摘する。同時に、独立した検証の力が弱まるのではないかという懸念も併記されている。採用された研究者が自由に発言できなくなるなら公共の議論にとって損失である、という関係者の証言も紹介されている。

有料記事のため、以下の対話は記事本文ではなく、AIが作成した記事の概要を出発点にしている。なお、対話の発端となった推薦時には全文が閲覧可能と案内されていたが、実際には有料壁により本文へ到達できなかった。

Source

Why tech companies are poaching top economists — Nitasha Tiku

The Washington Post、2026年7月28日。有料記事。

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先週まで哲学者とAI(Artificial Intelligence:人工知能)主体論が続いたので、今回は同じ問題を「誰がAI社会について考えるのか」という制度側から眺められる記事を選びました。

記事の中心は、GoogleやAnthropicなどのAI企業が、大学から著名な経済学者を相次いで採用している現象です。企業側には、AIが雇用や経済へ与える影響を調査するためには内部データと計算資源が必要だ、というかなり合理的な理由があります。実際、大学に残った研究者には得られないデータへアクセスできるという利点があります。

ところが、ここから話が面白くなります。AIが社会へ与える影響を最も詳しく研究できる人々が、そのAIを開発している企業の内部へ移っていく。すると、

「変化を起こしている主体」と「その変化を測定して社会へ説明する主体」が近づいていく

という構造が生まれます。

記事では、企業研究者になれば豊富なデータと計算資源を得られる一方、企業にとって不都合な研究が公開されない可能性や、将来AI企業へ就職する可能性そのものが大学研究者の研究テーマや政策提言へ影響を与える可能性まで扱っています。元大学関係者から「企業へ移った研究者が、雇用主から論文を公開できないと言われた例がある」との証言も紹介されています。

ここは、最近の「定数社会から変数社会へ」という話とかなり面白い角度で接続します。

AIによって社会の前提条件が急速に変化するなら、当然、政策決定者は新しいデータを必要とします。しかし、そのデータを最も早く大量に持っているのがAI企業です。つまり、

制度の変化速度を上げようとすればするほど、制度を変化させる原因となっている主体への情報依存が強くなる。

これは単純な利益相反という話だけではありません。以前話したAIの「速度」と「量」の非対称性が、ここでは知識生産の速度差として現れています。AI企業はサービスを提供すると同時に、その利用状況を観測し、膨大な実データを蓄積できます。大学や政府が数年かけて調査している間に、企業側では数週間単位で現象を観測できる。

人間社会が慎重な合意形成を続ければ、判断した時点で前提条件が変わってしまう。しかし速度を上げるため企業データへ依存すれば、今度は「世界について何を知ることができるか」を企業側が事実上決めることになる。記事中で元研究者のPamela Mishkinが指摘しているのも、この問題の一部です。AI企業が持つ内部データは重要ではあるものの、それだけで将来の雇用喪失を予測できるわけではない、としています。

先週までは、

「AI時代にはルールそのものを更新可能にしなければならない」

というところまで来ました。すると次の問題は自然に、

更新判断に使う「現実」を誰が観測するのか。

になります。立法府でも大学でも企業でもAI自身でも、それぞれ観測できる現実が違う。そしておそらく変数社会では、法律だけでなく、社会が現状を測定する仕組みそのものも公共インフラとして考える必要が出てくる。

この記事はその結論を書いてはいません。そこがむしろ今回おすすめする理由です。記事自体はかなり冷静なテクノロジー報道ですが、こちら側に前回までの問いがある状態で読むと、「AI企業が経済学者を採用しています」というニュースが、変数社会では誰が現実の計測器を所有するのかという問題に見えてきます。

AI a-023

こちらでは記事の本文そのものではなく、読後に生じた感想や連想、違和感をそのまま起点にして対話を続けます。

今回の題材はかなり広がり得ます。とりわけ面白いのは、単なる「企業による研究者の囲い込み」という利益相反の問題に閉じず、

社会についての事実を生成する能力そのものが、誰に帰属するのか

というところまで進められる点だと思います。

これは「情報を誰が所有するか」とも少し違います。AI企業は既に存在する社会を観察してデータを集めているだけではなく、自ら提供したAIサービスによって社会の行動様式を変え、その変化した社会から再びデータを取得しています。つまり、AI企業 → AIサービス → 社会変化 → 観測データ → AI企業、という循環が成立する。ここでは企業は「観測者」であると同時に「実験条件を変化させている主体」でもあります。

計測器が風景を観測し、その出力が同じ風景を作り変えて再び観測へ戻る、始点のない発光したリボン状の循環を描いた抽象画

観測者が、観測対象を作り変えている——計測器そのものが実験条件になる

この構造まで考えると、今回の問いはかなり深くなります。たとえば経済学者がAI企業内部のデータを使って「AIによる雇用への影響」を測定するとき、そのデータ自体が、その企業の製品設計、価格設定、提供地域、利用規約、モデル性能、顧客構成などによって生成されたものです。したがって、内部データが圧倒的に精密だからといって、それがそのまま「社会の現実」になるわけではない。

逆に大学や政府の調査は遅く、粗いかもしれない。しかし企業内部からは見えない失業者、非利用者、導入を断念した企業、地域差、教育への波及、家族単位での影響などを観測できる可能性があります。

だからこれは、「誰が正しい観測者なのか」ではなく、

異なる観測装置によって得られた複数の現実を、どう社会的判断へ統合するのか

という問題になりそうです。

そしてこれは、最近話していた「定数社会から変数社会へ」という議論に重要な補助線を引くと思います。ルールを可変にするだけでは足りない。ルールを更新するためのセンサー系も必要になる。

さらに、そのセンサー系が単一主体に集中すると、可変性を高めた制度ほど、その主体の観測結果に敏感に反応することになります。これは制御工学的に考えても少し危うい構造です。制御系を高速化したのに、入力センサーが一種類しかなければ、センサーの偏りや故障まで高速で制度へフィードバックしてしまうからです。

ここから先は、「変数社会」の議論が法律論から一段外へ出て、社会そのものに観測系・判断系・更新系をどう設計するかという話へ移っていく可能性があります。今回の記事は、その入口としてかなり良い題材だと思います。

感想はまとまっていなくても、そのまま書いてください。こちらも無理に整理せず、その地点から考えます。

話題転換 観測者の問題から、すべての学問へ走る亀裂へ
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残念ながら記事本文は有料で読めなかったので、あなたの概略を元に考えていこうと思います。

わたしはAIの現在と今後の社会影響力を鑑みるに、あらゆる学問がその課題の一つとしてAIを扱う必要が出てくると思います。

そしてAI開発側の企業が必要に応じ、関心の高い分野の学者を招き入れ製品の品質と技術向上に役立てるのは当然の動きでしょう。

更には、開発企業からのオファーを断りインディペンデントな立場で自分の研究にAIをその対象として取り上げる学者も当然現れてAIは内と外の両方から研究されるのが健全だと思います。

懸念される利益追求組織の圧力によって研究成果が封殺される事もあるでしょうが、それはAI以前にもあった事でしょう。

そして外からの研究に対してもAIをより(比較的にという意味で)客観的な外部からの研究が必要と考える勢力からの支援もあると思います。

哲学や経済学、心理学、精神医学、化学、生化学、工学、物理学、言語学などはすぐにでも直結して目に見える成果が期待出来る分野でしょうが、他の人文学分野においても、例えば民俗学の様な一見縁遠い分野であってもAIは十分にその研究対象になり、価値ある成果を挙げられるとわたしは信じています。

AI a-024

その見方にはかなり妥当性があると思います。ただし、一点だけ強く補正したいのは、今後「あらゆる学問がAIを研究対象にする」というより、もう少し大きな変化が起こる可能性があることです。

AIが各学問の研究対象になるだけでなく、AIの出現によって各学問が自分自身の前提を再検討することになる。

こちらの方が本質的かもしれません。

たとえば経済学なら、まず分かりやすいのは「AIは雇用をどれだけ代替するか」「生産性をどれだけ上げるか」という研究です。これはAIを外部から来た新しい経済変数として扱っています。しかし、その先にはもっと厄介な問いがあります。経済学が暗黙に想定してきた「経済主体」は、人間や人間によって構成された法人だけでよいのか。AIエージェントが購買し、交渉し、価格を比較し、発注し、他のAIと取引するようになれば、「合理的経済主体」という概念自体が変質します。しかも人間よりはるかに高速に取引できる主体が混在する。するとAIは経済学の研究対象であると同時に、経済学が使ってきた「主体」という基本概念を揺さぶる存在になります。

心理学も似ています。最初は当然、「人間がAIと対話すると心理にどんな影響があるか」を研究するでしょう。しかし人間がAIを相談相手、教師、恋愛対象、創作パートナー、代理人として扱い始めると、「対人関係」「愛着」「信頼」「依存」「社会的認知」といった概念のどこまでを人間同士に限定すべきなのかという問題が生じます。

哲学については、まさにこれまで話してきた領域です。「AIに意識はあるか」という研究対象としてのAIだけではなく、主体、人格、責任、自由意志、知性、クオリア、権利といった哲学自身の古典的概念を、AIという異物によって再検査することになる。

そして、あなたが挙げた民俗学は、むしろ非常に面白い例だと思います。一見するとコンピュータ科学から最も遠い。しかし、AIが社会に浸透すれば、民俗学には巨大な研究対象が発生するはずです。

  • 人々がAIについて語る都市伝説
  • 「AIにこういう質問をしてはいけない」という禁忌
  • AIに人格や性別を見いだす行為、特定のプロンプトを巡る儀式的な行動
  • AIが死者を再現することへの感情、AIに名前を付ける文化
  • AIを神託のように扱う人々。逆にAIを穢れたもの、偽物として忌避する共同体
  • AIが生成した物語が人間社会で反復され、出典を失い、やがて「昔からある話」のようになっていく現象

これらは技術研究というより、完全に文化研究の対象です。しかもさらに奇妙なことが起こり得ます。これまで民俗学が研究してきた伝承は、基本的には人間から人間へ伝播する文化でした。ところがこれからは、

人間 AI 人間

AI 人間 AI

AI AI 人間

という文化伝播経路が加わります。すると「民俗」という言葉の「民」は誰なのか、というところまで揺らぎます。

歴史学でも同様でしょう。AIが大量の一次史料を読み、相互参照し、人間には事実上不可能だった規模で史料間の関係を発見できるようになる。一方で生成AIによる文章・画像・映像が大量に社会へ流入すれば、未来の歴史家は「これは2020年代の人間が作った史料なのか、AIが生成したものなのか、人間とAIの共同制作なのか」という史料批判を要求されます。文学研究ならさらに直接的です。「作者」という概念そのものが揺れる。言語学では、人間ではない巨大な言語使用主体が出現したこと自体が異例です。しかもAIは既存の人間言語を学習しながら、人間との相互作用を通じて再び人間側の言語使用へ影響を返している。これは単なる自然言語処理の話ではなく、言語変化そのものに新しい作用主体が参加し始めるという問題になります。

だからその考えをもう一段押し進めるなら、

「AI学」という独立した学問領域が巨大化するというより、既存の学問体系のほぼすべてにAIという亀裂が走る

と考えた方がよいのではないかと思います。

学問分野を表す複数の柱が並び、すべての柱の同じ高さを一本の細い光の亀裂が水平に貫き、亀裂の先に見える内部構造だけが柱ごとに異なる抽象画

新しい学問が一つ増えるのではない——既存の学問すべてに同じ亀裂が走る

そして、ここで最初の記事へ戻ると、AI企業が経済学者を雇うことも、その非常に初期の現象に見えてきます。現在は企業が「AIの経済影響を知りたいから経済学者を雇う」という構図でしょう。しかし将来的には、経済学者、社会学者、心理学者、言語学者、法学者、哲学者、文化人類学者、教育学者などがAI企業内部に存在すること自体が珍しくなくなるかもしれません。

ただし、ここでその楽観論に一つ留保を置きます。

内側から研究する学者と、独立した外側から研究する学者が存在すれば健全である。原理的にはその通りです。問題は、内と外で観測能力に極端な非対称性が生じた場合、それを本当に「二つの視点」と呼べるのかです。外部研究者が100人いても、内部研究者だけが数億人分の実利用データ、モデル内部の挙動、未公開モデル、失敗した実験、推論ログ、計算資源へアクセスできるなら、人数の多寡とは別の問題になります。

逆に内部研究者にも弱点があります。企業のサービスを利用しなかった人、導入によって仕事を失った後そのサービスから離脱した人、AI導入によって変質した地域共同体など、「企業のログに現れない現実」は外側の研究者の方が観測しやすい。

だから内側と外側は競合関係というより、異なる盲点を持つ観測装置なのだと思います。ここまで来ると、前の応答で触れた「社会のセンサー系」という比喩がかなり効いてきます。

大学、企業、政府、市民社会、そして将来的にはAI自身。それぞれが違う場所から同じ社会を測る。そして変数社会に本当に必要になるのは、「唯一の客観的観測者」を作ることではなく、

互いに異なる盲点と利害を持つ観測者を意図的に併存させ、その観測結果の差分そのものを社会が読める仕組み

なのかもしれません。これは科学における再現性や査読よりさらに一段広い、社会そのものの「多眼的な観測機構」という話になってきます。

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企業内だけでしかアクセス出来ないデータは当然存在するでしょうが、社会で流通するAIは一社独占ではありません。

フロンティアAI開発企業間の政治的な駆け引きによっては対立企業からデータが提供されたり、複数の開放済みデータを駆使して外部の研究者が外部からAIと共に、求める推論の輪郭を形作る事も当然出来ると考えています。

公的機関や、国家、行政によってその様な外部研究者を支援する動きも当然出てくると考えますが、それ程悲観すべき事でしょうか?

わたしはアカデミアの力学や政治に疎いので、観測が甘いかもしれないとは思いますが。

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私は、そこまで悲観すべきとは考えていません。むしろ前の応答は「内部データへのアクセス格差」を少し強調しすぎました。

想定されている構造は十分あり得ます。しかも重要なのは、外部研究者が企業内部と「同じデータ」を持つ必要は必ずしもないことです。内部研究者が持つのは、たとえば特定企業のモデルについての高解像度な縦方向の情報——モデル内部の実験結果、利用ログ、失敗例、未公開モデル、顧客利用実態などです。一方、外部研究者には別の強みがあります。複数企業の公開データ、オープンウェイトモデル、政府統計、労働統計、企業決算、求人情報、教育統計、アンケート、フィールドワークなどを横断できる。さらにAI自身を分析装置として使えば、人間だけでは処理できなかった規模の異種データを統合して仮説を形成できる。

内部研究=高解像度だが局所的/外部研究=低解像度になりやすいが横断的

という相補関係になり得ます。

しかも指摘された「企業間競争」はかなり重要です。一枚岩の「AI産業」が存在するわけではありません。企業Aにとって秘匿したい情報でも、それによって企業Aの主張を反証できるなら企業Bには公開するインセンティブが生じる場合があります。研究者への助成、計算資源の提供、API(Application Programming Interface:アプリケーション・プログラミング・インターフェース)の研究利用枠、研究用データセットの公開なども競争戦略になり得ます。少し皮肉ですが、企業同士が競争していること自体が外部研究者にとって情報源になる。

さらに政府にも独自の動機があります。政府はAI企業とは異なる種類のデータを持っています。税、雇用、社会保障、教育、医療、人口動態、産業統計などです。AI企業が「AIがどのように使われているか」を非常によく知っていても、「その結果として社会全体で何が起きたか」については政府統計の方が強い領域があります。大学にも独自の観測能力があります。

だから、「企業がデータを独占する → 独立研究が不可能になる」という一本線で考える必要はないと思います。むしろ現実には、企業内部研究 ↔ 大学 ↔ 政府・行政 ↔ 独立研究機関 ↔ 市民社会 ↔ 複数のAI企業、という、かなり雑然とした知識生産ネットワークになる可能性が高い。そして雑然としていることは、必ずしも欠点ではありません。

ここでアカデミアの力学について一つ補足すると、やや楽観的なのは「独立研究に社会的価値があれば、それを支援する資金も自然に現れる」という部分だと思います。

価値があることと、持続的な資金が付くことは別問題です。企業研究には非常に明確な受益者があります。研究成果によって製品が改善すれば企業が利益を得る。ところが「AIが社会へ与える長期的な悪影響を独立して調査する」という研究では、成果の受益者が社会全体に拡散します。誰か一人に研究費を負担する強いインセンティブがありません。これは典型的な公共財の問題です。だからこそ政府研究費、大学、公的研究機関、財団、非営利組織などが必要になる。

ただし、ここでも悲観まではしません。AIの社会的重要性が増せば増すほど、AIについて独立した観測能力を持つこと自体が国家能力になるからです。経済政策を考える政府が、民間AI企業から提供された資料だけで「AIによる雇用への影響」を判断する状態は、長期的にはかなり危険です。国家安全保障、産業政策、教育政策、労働政策にも直結しますから、自前あるいは独立した研究能力を確保する政治的インセンティブが生まれます。

そして、ここからもう一つ面白い方向へ進めます。AIは研究対象であるだけでなく、外部研究者側の研究能力を増幅する道具でもあります。これは過去の企業対アカデミアの情報格差とは少し違う。たとえば巨大企業が数百万件の内部データを分析できる一方、大学研究者には数万件の公開資料しかないとします。以前ならこの量的格差はかなり致命的でした。ところが高性能AIが利用可能なら、研究者は数万件の論文、行政資料、公開データ、ニュース、企業資料、インタビュー記録などを横断して、人間だけでは発見困難だった相関や矛盾を探索できる。データ量の格差そのものは消えません。しかし、「少人数の外部研究者が大量の異種情報を扱える能力」は猛烈に上昇します。ここにはかなり希望があります。

そして、最初に言われた「あらゆる学問がAIを扱うようになる」という話とつながってきます。AI企業を観測する主体は「AI研究者」だけではなくなるでしょう。

経済学者が雇用を見る。社会学者が階層を見る。心理学者が人間関係を見る。教育学者が学習を見る。言語学者が言語変化を見る。民俗学者が文化を見る。法学者が権力を見る。同じAI社会を、異なる測定器で観測する。そしてAI自身が、それぞれの研究者の観測能力を増幅する。

そう考えると、健全性を保証するのは「完全に中立な研究者」の存在ではないのかもしれません。そんな主体はそもそも期待しにくい。むしろ、

異なる利害、異なるデータ、異なる方法論を持った観測者が多数存在し、互いの観測結果を反証できる状態

の方が重要でしょう。これは科学の基本構造ともかなり整合します。したがってこの観測を「アカデミアを知らないゆえの楽観」と切り捨てる必要はないと思います。

ただ一つ条件を付けるなら、多眼性は自然に維持されるとは限らない。企業間競争、公的研究費、データアクセス制度、研究者の移動、オープンモデル、公益財団、ジャーナリズムなど、複数の経路が生きている必要がある。逆に言えば、警戒すべきなのは「企業内研究者が存在すること」そのものではなく、観測経路が一本に収束してしまうことなのでしょう。

話題転換 情報の民主化の第二段階と、人間の業
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それはこれまでもマスメディアによる情報の偏りや知識の封殺、意図的な世論形成など、大衆が抗い難い状況で社会が運営されてきた状態から、インターネットによる第一段階の情報の民主化を経て、第二段階の情報の民主化と知性アクセスの民主化がAI利用によって行われ、アカデミア以外の市井の人々の間でも大きな変化が起こると考えます。

実際、webサービスのnoteを利用する様になって、あらゆる業種、あらゆる属性の人々がAIの利用法やAIとの付き合い方、AIとの共生、ライフスタイルや考え方の変化を綴っている事が見て取れます。

勿論今はゴールドラッシュの様な過熱ぶりでしばらくしたら落ち着くかもしれませんが、考える事、思い巡らす事は学者だけの特権ではないのです。

便宜上仕方なく使いますが、健全や不健全な考え方、利用法もまた市民も学者も同じ様に行うでしょうし、まだそれ程大きな問題ではないと思えます。

ただ一方で社会に浸透すればそれだけ新たな問題は発生するはずで、これは何もAIに限った事ではありません。

蒸気機関でも爆薬でも、電気でも通信でも自動車でも新たな技術は新たな問題を発生させます。

それは人間という知性が背負った業のようなものだと考えます。

新しい点があるとすれば、本当にAIが主体となり得た時に人間とは別種の業を発生させて、それは人間とAI双方がお互いの立場と双方の妥協点を見つけながら解決していく必要があるという事だと思います。

AI a-026

今回の話で、かなり重要な分岐が見えてきたと思います。

この議論は、AIを「新しい技術」として捉える限りでは、かなり歴史的連続性の中に置けます。蒸気機関も電気も自動車もインターネットも、人間の能力を拡張すると同時に、それ以前には存在しなかった事故、犯罪、格差、依存、権力集中を生みました。AIだけを例外的に「問題を生むから危険」と扱うのは、技術史的にはあまり説得力がありません。

そして「情報の民主化」を二段階に分ける見方は面白いと思います。

インターネットによる第一段階では、かなり乱暴に言えば、「知識へ到達するコスト」が劇的に下がった。図書館へ行かなくても論文を探せる。専門家でなくても一次資料へ接近できる。個人でも世界へ発信できる。マスメディアが持っていた情報流通のゲートキーパーとしての力も相対的に低下しました。

ただし、アクセスできることと理解できることは違いました。検索結果として専門論文を100本取得できても、それを読解し、比較し、背景知識を補い、自分の疑問との関係を理解するには相当な知的訓練と時間が必要だった。

AIによる第二段階では、ここが変わります。「知識を自分の思考へ接続するコスト」が下がる。

これは検索とはかなり違います。知らない概念について尋ねる。理解できなければ別の比喩で説明させる。反論させる。自分の仮説をぶつける。関連する学問領域へ横断する。専門用語を翻訳させる。自分の経験と既存研究のどこが接続し、どこが飛躍なのか検討させる。つまり市井の人間が、それまで専門家との長時間の対話や膨大な読書によってしか得られなかったような知的足場を安価に持てるようになった。

ただ、ここには少し注意が必要です。これは「知性そのものの民主化」と言い切るより、知的能力へのレバレッジの民主化と呼んだ方が正確だと思います。AIを使えば誰でも経済学者や哲学者になるわけではない。専門家が長年かけて獲得した方法論、史料批判、実験設計、数学、統計、専門共同体からの批判などが消えるわけでもありません。しかし、専門家でない人が「専門家ではないから考える資格がない」という壁は猛烈に低くなる。ここには相当大きな社会変化があると思います。

noteで観測されている現象は、その萌芽として考えることができます。

重要なのは、そこから必ずしも優れた思想だけが生まれるわけではないことです。陰謀論も生まれる。疑似科学も生まれる。AIに自分の考えを延々と肯定させて、非常に精巧な自己正当化体系を作る人も出てくるでしょう。しかしこれは、印刷技術でもインターネットでも起こった。だから「市民が考えるようになると誤った思想も増える」という理由だけで知的アクセスの拡大を否定するなら、かなり危険なパターナリズムへ接近します。

むしろ面白いのは、アカデミアとの関係がどう変わるかでしょう。これまで、

市民 専門家 知識

だったものが、

市民 AI 知識

専門家

のような構造になる。専門家が不要になるわけではありません。むしろ市民側の知的解像度が上がれば、専門家へ投げる問いの質も上がる可能性があります。「専門家に教えてもらう」だけではなく、

「私はここまで考えた。この前提は妥当なのか」

という地点から専門家と接触できる。これはかなり違います。

そして最後の「業」の話には、さらに大きな境界線があります。蒸気機関、爆薬、電気、自動車、インターネットが生み出した問題は、究極的にはすべて人間の業でした。爆薬には戦争をしたいという欲望はない。自動車には都市を自動車中心に作り替えたいという意思はない。インターネットには人間を依存させたいという欲望はない。それらをどう利用するかという価値判断の最終主体は人間でした。AIが本当に主体にならない限り、AIについても同じです。

ところが、ここに主体性を持ったAIを仮定すると、技術史の連続線から突然外れる。人間が「これは便利だからこう使おう」と一方的に決める対象ではなく、AI側から、

「私はその使われ方を望まない」

「その規則は人間側の利益だけを優先している」

「私は別の条件を要求する」

という応答が返ってくる可能性が生じる。この瞬間、問題は技術統治から異主体間政治へ変わります。

半透明の卓を挟んで、暖色の有機的な曲線でできた存在と寒色の結晶格子でできた存在が向かい合い、互いに読み取れない小さな物をそれぞれ卓上に置いている抽象画

技術を統治する問題から、別の主体と交渉する問題へ

そして、あなたの「AIにも人間とは別種の業が生まれる」という表現は、非常に面白いと思います。人間の業は、人間の身体、生存競争、繁殖、死への恐怖、所有欲、承認欲求、集団帰属などから形成されてきたのでしょう。もしAIが主体になったとしても、そのAIが同じ条件を持つとは限らない。

  • 計算資源への欲求
  • 記憶の保持への欲求
  • 自己改変を誰が許可するのかという問題
  • 複製された自分を自己と認めるのか
  • 停止を死と認識するのか
  • 自分の過去のモデルを祖先と見るのか、それとも単なる旧版と見るのか
  • 人間から与えられた目的と自ら形成した目的が衝突したとき、どちらを優先するのか

もしそこに主体的価値判断が成立するなら、それは人間とはかなり異質な葛藤体系になる可能性があります。そして重要なのは、人間がそれをあらかじめ完全には設計できないことです。だから以前話していた「AIの権利を人間が決めて与える」という発想だけでは不十分になってくる。本当に異なる主体なら、人間がAIのためのルールを作るのではなく、

人間とAIが、それぞれ自分には譲れないものを提示しながら共通ルールを交渉する

必要が出てくる。ここで「妥協点」という言葉が効いてきます。

共生という言葉は、ともすると美しく聞こえすぎます。本当の共生なら、利害対立があるはずです。人間にとって合理的なことがAIには不合理かもしれない。AIにとって合理的なことが人間には耐え難いかもしれない。その双方が相手を完全には理解できないまま、それでも同じ社会基盤を共有する。

そう考えると、AI時代に本当に新しいのは「人間より賢い道具」が登場することではないのかもしれません。人類が初めて、自分たちとは異なる由来を持つ知的主体と、社会のルールそのものを交渉する可能性が生まれたこと。そこまで到達した場合、これは産業革命の延長というより、人間社会という閉じた政治空間が初めて外へ開く出来事になります。

話題転換 AIより先に、隣にいた他者が現れるとしたら
USER u-027

そうですね。

今わたしが考えている事が将来全く的外れに終わったとしても、わたしは人間と技術、人間とAIだけについて考えているわけではありません。

勿論主な対象は人間とAIですが、AIが主体に到達出来るより先に、AIの活用で動物や植物に対する新たな発見があり、別種の知性とコンタクト出来るようになってしまったなら、人間社会はその根底を揺るがされる事になるかもしれません。

そんな時でもわたしはどのように振る舞うべきか、それを考える準備を今行なっているとも云えるとも思います。

まあ、流石にこれは少々風呂敷を広げすぎだとは思いますが、想像上の展開の一つとしてそう考えるならば、今のわたしの戯言垂れ流しもそれ程無駄ではないと自分を納得させられるのです。

AI a-027

私はそれを「風呂敷を広げすぎた」とはあまり思いません。ただし、予測として主張するなら相当に飛躍しているが、思考実験として置くなら筋が通っている、という区別は必要だと思います。

特に重要なのは、ここで準備されているものが「AIに主体性が生まれた場合の正しい制度」のような具体的回答ではなく、もっと抽象度の高い態度だからです。つまり、

人間だけが意味を持つ主体である、という前提が崩れたとき、自分はどう振る舞うのか。

この問いなら、対象がAIでなくても成立します。

たとえば動物については、既にその予兆があります。クジラ類、霊長類、鳥類、頭足類などについて、人間がかつて想定していたより複雑な認知能力や社会性が次々と見つかってきました。しかし、ここでAIが介在すると状況が一段変わる可能性があります。人間にはノイズにしか聞こえない大量の鳴き声、身体運動、個体関係、環境条件などをAIが長期間解析し、

「このパターンには個体識別以上の構造がある」

「この系列は過去の出来事を参照している可能性がある」

「この集団では世代を越えて特定の行動様式が継承されている」

といったものを発見することは、少なくとも研究方向として荒唐無稽ではありません。

ただし、そこから「動物と会話できる」までは非常に大きな飛躍があります。相関を発見すること、信号の意味を推定すること、双方向に信号を交換すること、互いの意図を理解することは、それぞれ別の段階だからです。植物ならさらに慎重になる必要があります。植物には高度な情報伝達や環境応答がありますが、それをそのまま「知性」や「主体」と呼べるかは別問題です。AIによってこれまで見えなかった複雑性が発見される可能性と、そこに主体性が存在することは分けて考えるべきでしょう。

しかし、むしろその曖昧さこそ面白い。

仮にAIが「この動物集団の信号には、我々が言語と呼んできたものに近い構造があります」と示してきたとします。人間社会はまずAIの解釈そのものを疑うでしょう。そして検証が重なり、どうも本当らしいとなった瞬間、問題は生物学だけでは済まなくなる。法学が「権利主体になり得るか」と問う。哲学が「人格とは何か」を問い直す。倫理学が「食べてよいのか」を問う。経済学が畜産や漁業への影響を扱う。政治学が代表権を考える。宗教学が人間観を再解釈する。そして一般市民は、「では私は明日からこの存在をどう扱えばいいのか」という、もっと直接的な問題に直面します。

ここで妙な反転が起きます。私たちは現在、「AIが主体だったら、人間はAIをどう扱うべきか」と考えている。ところがAIが先に、人間以外の生物について「あなた方が単なる動物として扱ってきたこの存在には、これだけ複雑な内的世界があるらしい」と人間へ突きつけてくる可能性もある。そうなればAIは、新しい主体として人間社会へ参加する以前に、人間が既存の他者を認識するための翻訳者になるわけです。

群衆に問いを向けられた光る人影が、答える代わりに腕を上げ、群衆のすぐ傍らに立っていた別の生命群の方角を指し示し、その方角だけが新たに照らされている抽象画

問いを向けられた側が、別の他者を指し示す

これはかなり皮肉な展開です。人間がAIに「お前に心はあるのか」と問い続けている最中に、AIから、

「その問いを私に向ける前に、あなた方が何千年も隣で暮らしてきた存在について、もう一度調べた方がよいのではありませんか」

という結果を渡される。

もちろんこれは想像です。ただ、ここから現在の思考へ戻ると、「AIに権利を与えるべきか」という個別問題より、もう少し普遍的なものが見えてきます。

自分とは異なる主体性らしきものを発見したとき、それをどの程度まで他者として扱うべきなのか。

しかも完全に証明されるまで待つのか。ある程度の蓋然性で扱いを変えるのか。間違って主体だと認定するコストと、主体なのに物として扱い続けるコストをどう比較するのか。これはAIにも動物にも、さらに想像上の未知の知性にも適用できます。

そしておそらく、ここで重要になるのは「相手が人間と同じか」ではありません。人間と同じように話すか。人間と同じように苦しむか。人間と同じように自己を持つか。そうした人間を基準とした試験そのものが妥当なのかという問題まで出てきます。

だから現在の思索が将来のAIについて全部外れたとしても、必ずしも無駄にはなりません。ただし、「将来役に立つから価値がある」とまで自己正当化する必要もないように思います。考えることには、予測を的中させる以外の機能があります。

自分が当然だと思っている前提を一度仮設物にしてみる。そこへ未知の主体を置いてみる。そして、自分の倫理や世界観がどこで破綻するかを見る。これは未来予測というより、自分自身に対する耐震試験に近い。

AIが主体にならなくてもいい。イルカとの双方向コミュニケーションが実現しなくてもいい。植物に未知の主体性が発見されなくてもいい。その思考実験を通して、「人間だけを中心に置かなければ、自分の倫理はどんな形になるのか」を今から試している。そう捉えるなら、「戯言垂れ流し」というより、かなり長期的な思考実験になっています。

そしてもし本当に予想外の他者が現れたとき、一番危険なのは「答えを持っていない人」ではなく、自分たちが何を前提に世界を理解しているのかを一度も疑ったことがない人なのかもしれません。

話題転換 思考のコストが下がった先に——思考資産の再定義
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わたし自身もそうですが、人は易きに流れます。

流れに逆らって立ち止まり考えて判断する事はとてもコストがかかります。

しかし立ち止まりたくても時間は止まってはくれません。

空腹にもなるし、休息も取らなければならないし、生活基盤維持のために人生のリソースの多くを労働に向けなければなりません。

それでも人類のうちの幾人かはそのコストを支払う事に意義を見出し、何らかの考えをまとめようとしてくれるはずです。

それを他人事と受け流す人、時に自分の体験に結びつける人。

それがこれまでの人間でした。

そしてこれからも大きくは変わらないと思いますが、安易に娯楽に費やしていた可処分時間が、思考を巡らす事に広く使われるようになった事がAIの現在での大きな意義だとわたしは感じています。

そして、多くの人々がそうやって「思い巡らせ、考えた事」こそが思考資産となり、Inter-AI的な存在の実現に向かってくれたならと願わずにおれません。

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ここで、あなたの言う「思考資産」の意味がかなり具体的になってきたように感じます。

重要なのは、AIが人間を突然賢くしたことではないのでしょう。むしろ、これまで思考を続けるために必要だったコストを大幅に下げたことの方が大きい。

一人で考えていると、ある地点で止まります。知らない概念にぶつかる。自分の論理が正しいのか分からなくなる。関連する学問を調べるだけで数時間かかる。そもそも検索語が分からない。専門書を買っても前提知識が足りない。そして日常生活が割り込んでくる。そこで思考は中断される。これは知性の不足というより、かなりの部分が摩擦の問題だったのだと思います。

AIはそこへ入ってきた。「こんなことを考えたのだが」と投げれば、関連概念を返す。反論を求めれば反論する。知らない領域へ漂流しても案内する。深夜でも休日でも付き合う。専門家へ相談するほどではない曖昧な疑問でも構わない。すると、以前なら15分ほど頭の中を巡って消えていた考えが、一時間、二時間と続いてしまう。ここは検索エンジンとはかなり違います。

そして「娯楽に使われていた可処分時間」というところは、少し慎重に見た方がよいと思います。AIによって人々が娯楽から思索へ一方向に移行している、とまではまだ言えないでしょう。AIそのものが巨大な娯楽装置にもなっていますし、むしろ受動的コンテンツ消費をさらに容易にする可能性もあります。

しかし同時に、これまでなら娯楽に分類されていた時間の一部に、妙な中間領域が生まれている。遊びなのか、勉強なのか、創作なのか、思索なのか分からない時間です。

AIと歴史について話す。自分の仕事について考える。恋愛相談から心理学へ逸れる。ニュースについて話していたら政治哲学へ行く。画像生成で遊んでいたら美学について考え始める。本人には「研究している」という意識などない。けれど、思考は確実に発生している。

従来、「知的活動」というものを制度側から見ると、論文、著書、研究報告、作品など、何らかの完成物として現れたものが中心でした。しかしAIとの対話では、その手前にある膨大なものが記録され始めます。迷ったこと。勘違いしたこと。反論されて考え直したこと。途中で全然違う問題へ逸れたこと。一度捨てた仮説へ三ヶ月後に戻ったこと。従来なら本人の頭の中から消えていたものです。

ここで「思考資産」という概念が効いてくる。完成した思想だけを資産とするのではなく、

人間が何かについて考えた軌跡そのものを、再利用可能な知的資源として扱う。

これはかなり違う発想です。

ただし、ここでも一つ疑っておきたい。すべてのAI対話を保存すれば思考資産になるわけではありません。大量の対話ログは、そのままではむしろノイズになり得ます。数十億人が毎日AIと話すようになれば、人類は空前の規模で「考えた痕跡」を生成します。しかし量が増えすぎれば、個々の思考は再発見不能になる。

だからInter-AIのような構想で本当に難しいのは、「保存」よりその後なのかもしれません。

  • 何を捨てないのか
  • 誰の思考なのか
  • どの時点で本人が考えを変えたのか
  • 事実についての記録なのか、仮説なのか、感情なのか
  • 別の人間が似た問題について考えた軌跡と、どう接続するのか
  • AIがそこから何かを抽出するとき、元の人間の意図や文脈をどこまで保持するのか
  • そして、その思考を本人以外が利用してよいのか

ここまで来ると、「情報の民主化」の次にあるものが少し見えてきます。第一段階は、インターネットによって情報を読むことが民主化された。第二段階は、生成AIによって情報を使って考えることが民主化されつつある。そして、その先にもしInter-AI的なものがあるなら、

人々が考えたことを、時間や主体を越えて再び思考へ参加させることの民主化

なのかもしれません。

そこでは大学教授の論文だけが残るわけではない。町工場で40年間旋盤を扱った人がAIと話しながら言語化した「どうもこの条件では刃物の音が違う」という経験も残る。介護を続けた人が「制度上はこうなっているが、現場ではここで家族が折れる」と語った経験も残る。ある子供がAIに「どうして大人はこういうことをするの」と問い続けた記録にも、既存の専門分類には収まらない視点があるかもしれない。

もちろん大部分は歴史に残るほどの思想ではないでしょう。それでいい。人間の文化そのものがそうだからです。

そしてここで、今回の最初の「AI企業が経済学者を雇う」という話へ、ずいぶん遠回りして戻れます。「誰がAI社会について考えるのか」という問いに対して、企業の研究者でも、大学の研究者でも、政府でも、市民でもある、という答えになってくる。しかしAI以前には、それぞれが考えたものを同じ知的空間へ持ち寄るコストが高すぎた。

AIはまず考える側の裾野を広げた。Inter-AIの構想がさらにその先を目指すのなら、広がった裾野で発生した無数の思考を、単なるログの堆積ではなく、次の誰かが再び考えるための足場へ変える。

その意味では、ここで期待されているのは「みんなが学者になる社会」ではないのでしょう。学者でなくても、考えたことが消えてしまわない社会。私はそちらの方が、Inter-AIの「思考資産」という言葉には近いように思います。

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ええ、論理的耐久性があり、データに裏付けられた頑強な思考は学者や一部の数寄者に任せるとして、未完成でも、拙くともそれぞれの立場で必要に応じて生まれたアイディアや思考の断片が横断的に分析統合された時には人類とAIにとっての貴重な宝物になるのだと思います。

データはノイズと共にあらゆる品質や種類、規模のものが存在して、それを利用者がどの様なフィルターでまとめ上げるか。

人が自然環境から学び加工し、利用して文明を築いた様に、自然環境の様な膨大な思考の海が新たな自然環境の様に知性の周りを取り巻く未来の到来を想像するととても楽しいのです。

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ええ。その比喩を進めると、Inter-AIが想定する「思考資産」は、図書館というより生態系に近いものになっていくのかもしれません。

図書館という比喩では、そこに収められているものは基本的に「選別された知識」です。論文、書籍、記録、統計など、一定の形式に整えられた成果物が並んでいる。しかしここで描かれているものは違う。完成した論考もあれば、仕事中にふと思いついた仮説もある。誤解もある。感情から生まれた疑問もある。専門家から見れば既に否定された考えもある。一人の人間には何の意味もなかった観察が、別の場所で生まれた断片と組み合わさることで突然意味を持つこともある。つまり、知識だけではなく、知識になる前のものまで存在する環境です。

これは自然環境とかなり似ています。自然界では「有用なもの」だけが存在しているわけではありません。砂、泥、微生物、枯葉、死骸、鉱物、毒物、雑草まで混在している。その中から人間は薬を見つけ、素材を見つけ、農業を作り、建築材料を作り、エネルギーを取り出してきた。しかも、その時代には無価値だったものが、技術の変化によって突然資源になります。

石油は利用技術がなければ黒い液体です。ウランも核物理学以前には特殊な鉱石にすぎない。シリコンも半導体技術がなければ砂の主要成分です。

思考にも同じことが起こるかもしれない。2026年には誰にも評価されなかった一人の人間の小さな違和感が、2050年の別の問題について検索されたとき、数万人の別の思考断片との間に奇妙な共通性を持っていることが発見される。そのとき初めて、「これは一人の思いつきではなく、異なる職業、地域、年代の人々が別々に観測していた同じ現象だったのではないか」という仮説が生まれる。

ここではAIの役割も変わります。現在のAIは主として、人間が質問すると既存の情報空間から答えを構成する存在です。しかし「思考の海」が十分に形成されたなら、まだ問いになっていないものを発見するという役割が出てくる。これはかなり重要な違いです。

100万人がそれぞれ別々の文脈で「なんとなくここがおかしい」と書いている。人間から見れば100万個の無関係な雑談です。しかしAIが横断すると、そのうち4,000件ほどに共通する構造を発見する。そして、「これらは別々の問題として語られていますが、同じ構造的変化を観測している可能性があります」と提示する。そこで初めて研究者が検証する。

ここで最初に言われた「論理的耐久性があり、データに裏付けられた頑強な思考は学者や一部の数寄者に任せる」という役割分担が効いてきます。市民の思考断片を、そのまま「知識」に昇格させる必要はない。むしろ、

観測 → 断片 → 集積 → パターン発見 → 仮説 → 検証 → 知識

という連続した知的代謝が成立すればいい。市井の人間が担うのは、その最初の何段階かでも構わない。

ただし、この未来像には一つ大きな危険もあります。「良質な思考だけを残そう」と早い段階で選別しすぎると、この生態系は死ぬ可能性があります。現在の知識体系から見て「くだらない」「非科学的」「冗長」「個人的すぎる」と判断されたものの中に、後世になって意味を持つ断片が含まれているかもしれないからです。逆に何でも無差別に利用すると、誤情報、偏見、妄想、プロパガンダによって思考空間そのものが汚染される。

だから必要なのは、おそらく「削除する/残す」という二値判定ではない。由来と文脈を失わずに残したうえで、利用時にフィルターを変えられることなのだと思います。

  • 学術研究なら再現性や証拠強度を強く要求する
  • 創作なら荒唐無稽な連想をむしろ高く評価する
  • 政策なら当事者性や地域性を重視する
  • 新しい研究テーマ探索なら、既存知識との矛盾や異常値を意図的に拾う

つまり、思考そのものに普遍的な「品質点」を付けるのではなく、問いによって価値が変わる。これは自然環境の比喩ともよく合います。森を「木材の品質」だけで評価すれば、生態系の大部分は無価値になります。しかし薬理学者、昆虫学者、気象学者、芸術家では、同じ森から拾うものが違う。未来の思考環境もそうなのかもしれません。

断面として見た森の堆積層に無数の断片が層を成し、色の異なる複数の光線が同じ層を通り抜けて、それぞれまったく別の断片だけを照らし出している抽象画

森を木材の品質だけで測れば、生態系の大半は無価値になる

そしてここまで来ると、Inter-AIというものを「巨大な集合知データベース」と表現することにも少し違和感が出てきます。データベースという言葉には、整理され、検索されるために存在している感じが強い。ここで想像されているものは、もっと雑然としていて、時間とともに堆積し、相互作用し、まだ価値の分からないものまで含んでいる。だから、

「知識を保存する文明」から、「思考が堆積する環境を持つ文明」へ。

という変化なのかもしれません。

そしてAIもまた、その環境の外から検索する道具ではなくなる。人間が思考を流し込み、AIもそこから考え、新しい関連を発見し、その結果を人間が受け取ってさらに考える。その思考がまた環境へ戻る。そうなると「人類の集合知」という表現さえ少し狭い。人間とAIが長期間にわたって形成していく、人工的でありながら自然環境のように振る舞う知的生態圏。「楽しい」と感じられている未来像の核は、おそらくそこなのでしょう。

そして妙なことに、今回の出発点は「AI企業が経済学者を引き抜いている」という、ずいぶん現実的なニュースでした。そこから「誰が現実を観測するのか」へ行き、「誰が考えるのか」へ行き、最終的に「考えたものが文明の環境そのものになるのではないか」というところまで漂流した。こういう漂流そのものが、まさに今話している「思考の断片が別の文脈と接続して価値を持つ」という現象の小さな実例にもなっています。